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聖徳太子の命を受けて、海のかなた百済の国から三人の工匠が日本に招かれました。ひとくちに海を渡るといっても、まだ造船技術も航海技術もはなはだ未熟な時代のこと。その道のりには現代人の想像を絶する数多くの危機と驚きがあったでしょう。また無事航海をおえ、日本の土を踏んでからもさまざまな労苦が続いたにちがいありません。しかし数々の困難と戦いながら、三人の工匠は仏への帰依の心をこめ、そのもてる技(わざ)のすべてをもって、四天王像をまつる寺院創建のために尽くしました。
 
         
 
 
(推古元年)の創建時、四天王寺は当初計画にあった廻廊と講堂の建築を残しておりました。これらの完成をみたのが八世紀の初め、創建時から百数十年を経た奈良時代前期のことでした。その時すでに初代金剛重光はこの世にはなく、その技術と心は二代目から三代目へと代を重ね、後世に受け継がれていきました。当時の工匠が何を思い、どんな暮らしを営んでいたのか今は知るよしもありません。今日まで連綿と続く「手斧始式」の出仕装束や烏帽子に、はるか奈良・飛鳥をみるのみです。
 
         
 
 
607年(推古15年)、四天王寺に遅れること14年。同じく聖徳太子の命により創建された法隆寺もまた、我が国が世界に誇る木造建築の最高峰の一つ。
これは、金剛重光とともに百済より渡来した二名の工匠たち(うち一名は山城の国に赴任)の手によるものと言われています。
四天王寺と法隆寺。日本建築を代表する二大歴史遺産を築いた工法は、今もなお金剛組の<組み上げ工法>の中に脈々と生きています。
 
         
 
  織田信長の手によって伽藍が全焼。  
         
 
  大阪冬の陣で再び焼け土と化す。  
         
 
 
茨城県水戸市にある偕楽園は、金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに日本三大公園の一つ。
1842年(天保十三年)、水戸藩主徳川斉昭 が造園したこの園の一郭に、往時の文人墨客が遊んだ<好文亭>がありました。
数奇屋造の端正な美しさを誇ったこの重要文化財は、昭和の戦火を浴びて焼失。
昭和33年復元後、再び火災にあい、同47年、再度復元されました。
金剛組は、宮大工としての優れた技術をかわれこの二度にわたる復元工事に参画しております。 
 
         
 
 
江戸時代までは、金剛家は官寺・四天王寺のお抱えの宮大工であり、毎年、定まった禄にあずかっておりました。すなわち仕事の有無にかかわらず、お家は安泰だったわけです。
しかし明治に入ってこの関係は一変します。 明治の文明開化が、太平の眠りにあった金剛組に大きな揺さぶりをかけたのです。
まず、1868年(明治元年)に廃仏毀釈の令が出され、後年その余波を受けて四天王寺は寺領を失い、以後、寺運は衰退の途をたどります。この間めだった工事といえば1903年(明治36年)大鐘楼の建立があった程度。金剛組にとってもまさに試練の時代でありました。
 
         
 
 
昭和に入っても、金剛組の苦難の道は続きます。
まず社の屋台骨を揺さぶる最初の危機は昭和の始め。
第37代金剛治一は、無類の職人気質。今でいうところの営業活動などさらさら念頭になく、金剛組は極度に困窮。
第37代はこれを祖先に詫びて非業の死をとげたのです。しかし、妻よしえが歴代初の女棟梁として第38代を継ぎ、東西に奔走して難をのがれました。
そして折りも折り、昭和9年、室戸台風のため四天王寺五重の塔が倒壊。金剛組に再建の命が下っています。
 
         
 
 
戦時中は、護国神社や軍神の造営などの神社関係の仕事はあったものの、寺関係の仕事はぷっつりとたえてしまいました。
そればかりか政府による会社統廃合策で、他社に併合される危機にも見舞われました。
このような景況のもと、金剛組は軍事用の木箱を製造するなどして、辛うじて社の命脈をたもったのです。
そして昭和30年、株式会社 金剛組が誕生。前社長・第39代 金剛利隆は経営の近代化を図り、以後金剛組は広く一般建築をもてがけることとなりました。
第二次世界大戦の戦火、あるいは台風、地震、火災など、昭和に入っても全国各地の社寺は度重なる戦火・火災に見舞われました。
そして戦後これらを復興するにあたり、防火・防災・経済性にすぐれる鉄筋コンクリート工法が脚光をあびました。
このような時代の要請をうけて、1955年、弊社はいち早く同工法による社寺建築に着手したのです(右の画像-顕孝庵本堂)。そして金剛組は鉄筋コンクリート工法でも、日本建築本来の優美さや、木のあたたかみなどを損なわない独自の工法を開発(社寺建築において最初の鉄筋コンクリート造は1954年・昭和29年の四天王寺鯨鐘楼)。
着々と実績をあげながら、1400年にわたる伝統技術の上に新しい技術を獲得し、大きく成長を遂げました。
 
         
 
 
これまでにない美しい建物をつくりたい。
伝統技術にだけ固執するのではなく、近代工法も積極的に取り入れました。そしてこの近代工法の導入は金剛組の建築表現の幅を大きく広げることになりました。
すなわち鉄筋コンクリートや鉄骨の強度と耐久性が、巨大なアーチやのびやかな吹き抜け空間、あるいは シンプルな直線美や複雑な幾何学模様などの、斬新なデザインと画期的な建築構造を可能にしたのです。
現在、金剛組が常時擁する宮大工の数は約110余名。最近ではこの伝統技術の奥儀を知りつくした力に加えて、近代建築と伝統工法の融合を図り、いつまでも歴史に残る社寺仏閣をつくりたいという願う若い力が大きく育っています。
これらの人材は、なにものにもかえがたい当社の強味。金剛組はこれを原動力として、社寺建築はもちろんのこと近代建築においても、''さすが宮大工の建築だ''との評価がいただけるよう、日本建築の持つ独持の優雅さや格調を尊び、また伝統技術を磨き近代技術を究めながら、新しい日本建築の歴史を築いてまいる所存です。
 
         
 
 
GWAの一員 新生 金剛組として再出発致しました。倍旧のご愛顧を頂けますようお願い致します。
 
         
 
 

高松コンストラクショングループ

 
         
         
 

聖徳太子
百済の国から
聖霊会舞楽大法要
四天王寺
好文亭
廃仏毀釈により領土を失った四天王寺
第38代歴代初の女棟梁
手斧始め式の様子
コンクリート工法による
社寺建築に着手
斬新なデザインと画期的な建築構造
近代建築と伝統工法の融合
GWAの一員に
熄シコンストラクショングループ