金剛組について
沿革
トップ金剛組について 【沿革】
聖徳太子の命を受けて、海のかなた百済の国から三人の工匠が日本に招かれました。この内の一人が、金剛組初代の金剛重光です。工匠たちは、日本最初の官寺である四天王寺の建立に携わりました。重光は、四天王寺が一応の完成をみた後もこの地に留まり、寺を護りつづけます。
聖徳太子
創建時、四天王寺は当初計画にあった廻廊と講堂の建築を残しておりました。これらの完成は八世紀の初め、創建時から百数十年を経た奈良時代前期のことです。その時すでに初代金剛重光はこの世にはなく、その技術と心は二代目から三代目へと代を重ね、後世に受け継がれていきました。
四天王寺元和再建伽藍図
1576年(天正4年)、石山寺の戦いに巻き込まれ、四天王寺は、支院を含め伽藍全体が焼失します。豊臣秀吉が全国を統一したあとの1597年(慶長2年)、秀吉により四天王寺支院・勝鬘院(愛染堂)の多宝塔が再建されました。多宝塔にある雷除けの銅板に、「総棟梁金剛匠」との銘が残されています。この多宝塔は、大阪市内では最古の木造多宝塔として、国の重要文化財に指定されました。
勝鬘院多宝塔
大阪冬の陣で四天王寺焼失。焼失の後まもなく、江戸幕府によって四天王寺の再建が開始されます。金剛家当主、第25代是則が伽藍の再建を命じられました。
勝鬘院銅板
焼失の度に、持てる技術を駆使し、再建してきた四天王寺ですが、この年には雷により五重塔が燃え、燃え移った火が境内の大半を焼失させてしまいました。その再建に尽力したのが第32代喜定です。喜定は、後継者に向けて「遺言書」を残しました。この「遺言書」の内容は、金剛家の家訓として後世に受け継がれていきます。その内容は、「職家心得之事」と記された十六の教えであり、「読書・そろばんの稽古をせよ。これは職家で一番必要なことである」「配下や弟子など、目下の人には深く情けをかけ、穏やかな言葉で召し使いなさい」「正直な見積りを書きつけ、差し出しなさい」「先祖の霊年、廻忌日、命日には怠けることなく香華を供え、仏事・供養の営みをしなさい」など、一見当たり前の事であっても、日々おろそかにしてはいけない大切な事を、正大工であった喜定が心得として記しています。
第32代喜定遺言書
大正時代の写真
江戸時代までは、金剛家は四天王寺のお抱えの宮大工であり、毎年、定まった禄にあずかっておりました。しかし明治に入ってこの関係は一変します。まず、1868年(明治元年)にいわゆる神仏分離令が出され、後年その余波を受けて四天王寺は寺領を失います。当然、禄は廃止。金剛組にとってもまさに試練の時代がはじまりました。以後、他の寺社にも進出することとなります。
四天王寺 金堂図面
四天王寺 中心伽藍
昭和に入っても、金剛組の苦難の道は続きます。第37代金剛治一は宮大工として、無類の職人気質であり、金剛組の仕事は極度に困窮。ついに、1932年(昭和7年)第37代はこれを祖先に詫びて先祖代々の墓前で自害してしまいます。しかし、残された妻よしえが歴代初の女棟梁として第38代を継ぎ、東西に奔走して難をのがれました。折も折、1934年(昭和9年)、室戸台風のため四天王寺五重塔が倒壊。金剛組に再建の命が下っています。
第38代 歴代初の女棟梁
戦時中は、護国神社や軍神の造営などの神社関係の仕事はあったものの、寺院関係の仕事はぷっつりと絶えてしまいました。
そればかりか政府による会社統廃合策で、他社に併合される危機にも見舞われました。このような苦境のもと、金剛組は軍事用の木箱を製造するなどして、辛うじて社の命脈を保ったのです。そして1955年(昭和30年)、株式会社 金剛組が誕生。第39代金剛利隆は経営の近代化を図り、以後金剛組は広く一般建築をも手掛けることとなりました。

第二次世界大戦の戦火、あるいは台風、地震、火災など、昭和に入っても全国各地の社寺は度重なる戦火・火災に見舞われました。そして戦後これらを復興するにあたり、防火・防災・経済性にすぐれる鉄筋コンクリート工法が脚光をあびました。このような時代の要請をうけて、弊社はいち早く同工法による社寺建築に着手したのです。そして金剛組は鉄筋コンクリート工法でも、日本建築本来の優美さや、木のあたたかみなどを損なわない独自の工法を開発しました。
金剛組 社屋(戦後)
金剛組 社屋(昭和38年)
金剛組 旧社屋
コンクリート工法による
社寺建築に着手
埼玉県に関東営業所を開設。続いて埼玉県鶴ヶ島市に加工センターを開設します。これにより、関東での本格的な材木加工が可能に。
東京本店・関東支店から始まり、以後全国的に支店・営業所を展開していきます。
四天王寺境内に全国の宮大工発祥の地として「番匠堂」を建立しました。番匠堂には大工の神様ともいわれている曲尺を持った聖徳太子が祀られています。毎年11月22日には四天王寺番匠堂曲尺太子奉賛法要が行われ、建設関係者が大工・建築技術向上や工事の無事安全を願います。
四天王寺 番匠堂
曲尺太子奉賛法要
髙松建設株式会社の出資を受け、新生 金剛組として再出発。創業以来1400年余にわたる伝統の技術と心、ならびに従業員・宮大工といった人材をすべて引き継いで新たなスタートを切りました。
金剛組専属宮大工は、この伝統の技を知りつくした力に加えて、最新技術と伝統工法の融合を図り、いつまでも歴史に残る社寺建築をつくる為、日々精進しています。
親会社の持株会社化に伴い、株式会社髙松コンストラクショングループの一員となりました。
髙松コンストラクション
グループの一員に
四天王寺の年中行事であり、弊社の仕事始めの儀式でもある「四天王寺手斧始め式」が、平成23年4月1日に大阪市無形民俗文化財となりました。
四天王寺手斧始め式
聖徳太子 四天王寺元和再建伽藍図 勝鬘院多宝塔 勝鬘院銅板 第32代喜定遺言書 大正時代の写真 四天王寺 金堂図面 四天王寺 中心伽藍 第38代 歴代初の女棟梁 金剛組 社屋(戦後) 金剛組 社屋(昭和38年) 金剛組 社屋 コンクリート工法による
社寺建築に着手
四天王寺 番匠堂
曲尺太子奉賛法要
髙松コンストラクション
グループの一員に
四天王寺手斧始め式